「マクベス」をみる(ストラトフォード カナダ)

 今日は、フェスティバル劇場で「マクベス」をみる。演出はAntoni Cimolino。Wikiによると、この人はカナダの俳優兼演出家らしく、ストラトフォード演劇祭(Stratford Festival)の芸術監督でもあるらしい。

 フェスティバル劇場は町の中心部から20分くらい歩いたところにあり、太陽がさんさんと照る真昼間の移動はつらかった。歩きながら、観劇らしき人をあまり見かけないなと思ったら、劇場そばに駐車場があり、みなさん、車で来ている模様。なるほど、だからバスの運行などもないわけだ。ちなみに、フェスティバル劇場はこんな感じ。

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 大きな劇場で、中でサンドイッチなどの軽食をとることもできる。舞台は小さめで今回のセットは上下二段構え。開始前の携帯お切りくださいアナウンスはなく、場内で突然いろんなタイプの着信音が鳴りはじめ、さいごに「サンキュー」と一言。笑いを誘っていた。

 肝心の「マクベス」、前半を見終えた時点で、何だかあっさりしているなという印象。各場面でも演じあげるという感じはなく、割とさくさく進む。魔女の予言で野望にとらわれ、その野望を叶えるためのお膳立てがされていく中、欲と流れのおもむくままに王を殺し、狂気に落ちていくマクベスというイメージからすると、その欲や苦悩や狂気といった内面をあえて強調しない演出になっているかのような。そのため後半も含め、マクベスマクベス夫人にこちらの意識が集中したり感情が移入したりすることはあまりなく、全体を眺めつつみる少し距離を置いてみる感じになった。

 ただ最後の最後が面白かった。マクダフがマクベスの首を持ち帰り、喜ぶ皆が王となるマルカムを神輿のように持ち上げる場面で終わるのだが、暗転していく中、皆の中の一人の顔がうっすらと浮かび上がる。それは三人の魔女の一人なのである。この終わりは、この後のマルカムの時世にもまた魔女が関わることを予感させもするし、またマクベスの栄華と敗北の物語において、魔女の予言は、予言というよりたぶらかしの面が強かったように思わせもする。つまり歴史を動かしてしまうような、もともとは些細な人の欲や野望や絶望を誘引し拡大する何かの力を象徴する存在としての魔女、という解釈がラストではっきりするのである。これまで距離をもってみてきたことの意味が、最後の魔女の落ちに一気に収斂されるように思えて、とても面白かった。マクベス個人の属性に還元しないような読みを、はっきりと打ち出した作品だったのだなとあらためて納得。いずれにせよ、救いのない物語であることは変わらないけど。

 シェイクスピア劇に詳しいわけではないのでわからないが、こういう演出は他にもあるのだろうか。あるなら見てみたいなぁ。